これは、ともこさんが体験された、うじきつよしさんがライブ中に酸欠でぶっ倒れた!! ライブの様子です。

あれは確か、‘81年の2月か3月。

その頃毎月のように子供ばんどがライブをやってて、関西ツアーの定番のハコだった、

京都は白川通りにあった「サーカス&サーカス」(叡山電鉄の駅からは遠く、

近くにバスしか通ってなくてめちゃめちゃ行きにくい)での出来事でした。

そこは地下にあって、狭くって、お客さんはあまり入れないところ。

多分、何十人単位しか無理。 でもファーストアルバムを出した後でもあり、

ライブの評判を聞いて、徐々に人が集まりつつあったんでしょう、

その日は狭いライブハウスが満員でした。

そして、その頃の子供ばんどは、体力の続く限りアンコールに応えていたので

、アンコールは7回8回は当たり前。

曲がもうないのか、「もうこれでオシマイ!」って事なのか、

ロックンロールトゥナイトの2回目の演奏、なんて事も。

その日も、アンコールの声は止みませんでした。

バンドは一曲一曲、終わる毎にステージの目と鼻の先にある

小さな楽屋に走り去り、また走って出てきます。

すぐそこまで走るのも苦しいのか、その日はアンコール最後のあたりで、

曲が終わっても、谷平こうちゃんはステージに座り込んだりして、へたってました。

でも、またアンコール、そしたら何事もなかったかのように立って、演奏して。

そして何度めかのアンコールの時、突然、はっちさんがフロントマイクの前に立ち、

 

「これ以上演奏できません、メンバーが倒れちゃったので」

 

のような事を言ったように思います。

その時は、まさか本当に失神してるとも思わず、何だかみんな、

冗談のように受け取ってました。

で、何人かぼちぼち帰り始め、私も帰り支度をしていると、

さっき帰った筈のお客の女の子が戻ってきて、

「外に救急車が来てる!何があったの!?」

と血相を変えているので、みんなビックリ。

すぐに救急隊員が階段をドカドカと担架を持って下りてきて、楽屋に直行。

そこで初めて、その場の全員が、「倒れた」というのは深刻だったんだ、と理解したのです。

これは後にうじきさんの口から聞いた話ですが、

楽屋内で救急隊員の人に話し掛けられてる内に気が付いて、

「気分はどうですか?」との問いに、半分朦朧と

「い〜い気分ですよ〜・・・」

と答えつつ、この人、どうしてヘルメット

かぶってるんだろう、と思ってたらしいです。

みんな心配してましたが、救急車に乗る事もなく

(ファイティング‘80sで宇崎さんが「救急車に乗って運ばれた」

と言ってましたが、それはありませんでした)

少し休憩した後は元気に姿を現わしたうじきさんでした。

やっぱ、ヴォーカリストだと、殊更に酸素が足りなかったのでしょうね。

ライブでは全く元気に見えたので、驚きました。

その頃のうじきさんは、今と違って、ガリガリに細かったし・・・確か、

45kg、って聞いた事ある。間違ってたらゴメンなさい。

そんで、本当は体弱かったんですよね?

子供ばんど後期にも、よく熱出してましたもんね。

でも、あの頃のバンドは、ライブハウスを毎月、日本中巡りつつ、

搬入搬出も自分達ならバンドカー(八百屋から買い下げた、中古の茶色いバン)

も自分達、安いところを泊まり歩いて、

やっと営業黒字になった時の初給料はひとり

3万円だった、というように覚えています。

グッズも、はっちさんがプリントごっこで、

手作りしてましたよね。軍手とか。

貧しいながらも

夢と希望でいっぱいでしたよね。

でも、あんな苛酷なツアーとライブを

こなしていたのは、若さがあってこそのもの。

私も10代でした・・・がもうすぐ、

30代最後の誕生日を迎えます、光陰矢の如し!

 

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